咲きも残らず散りもはじめず

タイトルは満開に咲く花を歌った古歌より

リロード24. 四季

いったい何歳まで生きれば「もう十分、よく生きた」と言ってもらえるのだろう?

 

そんなことを考えるようになった。

 

去年の今ごろは、「死にたくない」と願っていた。

それは、自分が死ぬには、まだ早いと思っていたからだ。

死ぬには、まだ若いと思っていたからだ。

 

しかし、平均寿命は毎年更新されてゆく。

「人生百年」といわれる最近では、人は信長の時代の「2倍」生きねばならない。

 人は、何歳まで生きれば、「もう十分だ」と思うのだろうか?

あるいは、何歳まで生きても「まだ生きたい」と思うのだろうか?

 人にとって生きる長さ、人生の長さとは、どんな意味があるのだろうか?

それよりなにより、いまさらながら、人から「充分だ」と認めてもらいたいのか?

 

うんざりだった。

 

身体は、あいかわらず痛い。

コントロールができるようになったとはいえ、痛いものは痛い。

 痛みに変化はなくとも、桜は咲き、桜は散った。

「痛みが減るのは「年単位」の時がかかります」

 誠実な担当医はそう教えてくれるが、痛みを感じる「本体」には

「年単位」の時が残されていないかもしれない。

 

それでも、暖かくなると痛みは少しは軽くなる。 

春になって、夏が来れば、痛みはもっと軽くなるかもしれない。

 

「人の一生には四季がある」という、司馬遼太郎の言葉が好きだ。

 

その長短とは関係なく、

人生には「春」があり「夏」を経て「秋」を迎え、そして「冬」に至る。

少年の人生にも、老人の人生にも「四季」がある。

 

私はかつて「老いる」ことを極端に恐れて生きてきた。

たそがれることが怖かった。

老いることは、弱ること。弱ることが、怖かった。

弱くなったら、なにもかもを失ってしまうと思いこんだいた。

だから、弱くならないように、強い自分に「しがみついて」いた。

いや、強いはずの自分に、しがみついていた。

 

なにもかもが、私の思い込みだったようだ。

 

だから、病気になって「玄冬」を受け容れる覚悟ができたようだ。

 

そのうちに、 「寒くない冬」もあるかもしれない、と、思えるようになった。

 

 

今は、「長く生きたい」とは願わない。

ただ、「良く生きたい」と、願う。

 

良くは、「善く」ではなく、あくまでも「良く」。

 

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