咲きも残らず 散りもはじめず

今日見ずは くやしからまし 花ざかり 咲きも残らず 散りもはじめず               ー満開に咲く花を歌った古歌よりー

はざまのカミサマ 17

仏教を知る前、この島国では

あらゆる命は、死んだら「他界」に行くものだ。

と、考えられていました。

 

今日でも、死ぬことを「他界した」とあらわすことがあります。

 

死後に行く「他界」は、人々の住む地域のそばの高山や海である場合がほとんどです。

 

人は死んで「この世」を去って「他界」にいきます。

そして、子孫の繁栄と幸せを祈っています。

やがて再び、「この世」に生まれ変わる時まで。

 

仏教が、「あの世」の存在を教える以前、

人々は、そう信じていました。

 

この「他界」こそが「はざまの世」なのでしょうか?

 

その「はざまの世」を感知する能力者とは、

どんな条件が当てはまるのでしょうか?

 

まず考えられるのは

 

「死後にカミサマや「人ならぬ者」と成った人物」

が挙げられます。

 

荒神となり、遺体を遺さなかった、秦河勝

そういえば、河勝は、聖徳太子の命で、カミサマの依代として、仮面をつけて天下泰平を祈祷する舞を舞ったこともありました。

 

軍神として祀られた坂上田村麻呂

も、条件を満たしているといえます。

 

二人は「はざまの世」を知り、この国土の森羅万象の精神を浴びた影響を受けて、「この世」に変化をもたらしたのでしょうか?

 

この島国に来るはずだった「未来」の姿を変えたのでしょうか?

 

そういえば

「死後にカミサマや「人ならぬ者」と成った人物」

であれば、

 

仏と成った、聖徳太子

御霊の神と成った、早良親王

 

などの人物も、「条件」を満たしていることになります。