イノチは、またも「はざまの世」に戻りました。
狐達は不思議な敗北感に包まれました。
その時まで沈黙していた黒狐が、初めて声を上げました。
「胡蝶を名乗るイノチよ、お前の『物語』をきかせておくれ」
「胡蝶を名乗るだと、汝の名は何か?」
青狐の問いに、半透明の陽炎がゆらゆらと揺れます。
紅梅の香りのおかげで、失っていた記憶を取り戻したイノチが声を上げます。
「我が名は、冬蛾」
記憶が蘇ったイノチは、自分の「物語」を語り始めました。
冬蛾は胡蝶のような姿形を持ちながらも、冬を生き抜くので「冬蛾」と呼ばれます。
冬蛾の翅は枯れ葉に似ています。
冬蛾は他の胡蝶のように、花から花へと舞い遊ぶことをしません。
冬蛾は枯れ葉のような翅を、ひそ、と広げたままでじっと動きません。
そうやって冬蛾は体力を温存します。
その姿で冬蛾は、他の生命が死に絶える冬を生き抜きます。
こうして冬蛾はまた冬を越えます。
胡蝶との違いはただそれだけの違いです。
けれども、その違いは冬蛾にとっては、とても大きな違いになります。
冬蛾は、胡蝶達と花々を見ていました。
可憐な紋白蝶や華麗な揚羽蝶などの胡蝶達が、色とりどりの花々と戯れたり、舞い遊ぶのをじっと見ていました。
冬蛾は枯れ葉色の翅を動かすこともなく、散ってしまう花びらや胡蝶達の生命を見送っていました。
そんな冬蛾が「この世」を去った際に、本当は眺めていただけの記憶を、花々と戯れる 胡蝶達の姿を、自分の姿であると思い込んでしまいました。
それはそれは幸せな記憶だったからでしょうか。
胡蝶達の幸せはそのまま冬蛾の幸せでした。
そして花々の美しさは冬蛾の誇りでした。
しかし、冬が彼らと冬蛾とを別ちます。
胡蝶達も花々も冬蛾のことを知りません。
誰もが自分の「物語」を謳歌するのに精一杯で、黙って見ている冬蛾のことに気づくものはいません。
すべての生命は、己の生きる時間を謳歌するものなのです。
それでも冬蛾はいつでも見ています。
そして、黙って見送ります。
幸せの記憶をくれたことに感謝しながら、冬蛾は見送ります。
しかし、やがて冬蛾は見送るだけの自分の運命に苦しみを覚えます。
その苦しみは、冬蛾が冬を越えて生きることの代償なのでしょうか。
その代償は、冬蛾には罰にしか思えません。
それでも冬蛾は生きます。
冬蛾は別れを続けながら死ぬことができずに冬を越します。