ほんとうならば、ミノ蛾になった時には、ミノムシの頃の記憶は失われます。
けれど、あのミノ蛾はミノムシの時代のことを覚えていました。
正確にいうと、ミノ蛾がミノを見た時に、記憶が蘇えったわけですから、ミノムシ時代の記憶は失われたわけではなくて、ミノ蛾の体のどこかにしまい込まれてしまうのかも知れませんが。
ともかく、あのミノ蛾は、ケムシのことも、クモのことを知っていました。
そして、あのミノ蛾が語った物語が、この村では「神話」として語り継がれていました。
命には終わりがあっても、物語には終わりはありません。
村のみんなは、神話に登場する祖父母や、父母に誇りを持っていました。
みんなの祖父や祖母がみた夢、果たせなかったその夢を、祖父母から受け継いだミノを使って叶えた父母。そして、その父母たちの子として生まれてきた自分たちに、誇りを持っていました。
もちろん、あのミノ蛾の孫にあたる、このミノムシも同じです。
村のみんなが春を見るためのクモのミノ作りに、糸を提供することで、クモに力を貸したうえに、ミノ蛾になってもそのことを忘れずに、最初に「神話」を物語った祖父のミノムシをとても誇らしく思っていました。
その夜、ミノムシは、緊張していました。
何しろ神話に登場する、あの「ケムシさま」を訪ねるのですから。
ミノムシは、みんなに頼まれて、ケムシの病気の噂を確かめるために、ここまでやってきました。
村のみんなにとってのカミサマであるクモの従者であるケムシに近づくことができるのは、木の葉従者で、ミノ作りのきっかけになったミノムシの孫しかいないと思われました。
「ミノムシさんは、いわば、この村のカミサマの子孫なわけですから」
今の村長であるトノサマバッタにそういわれて、まんざらでもないミノムシは勇んでやって来たのでした。
小石の隙間のケムシの家の前で、ミノムシは深呼吸して小声で練習します。
「ケムシさま。こんばんは。ミノムシでございます。ぼくが『あのミノムシ』の孫です」
ミノムシは戸が開くのを待ちます。
地上の虫たちのどの家でも同じですが、戸を開けっ放しにしていると、蟻たちが入り込んできてしまうのです。
ミノムシは、もう一つ深呼吸して、明るい声でいいました。
「ケムシさま。ミノムシです」
戸が開いて、針まみれの虫が見えました。
ミノムシは、固まってしまいます。
「おお。ミノムシさん」
ケムシには、このミノムシが、あのミノムシの孫であることがすぐにわかりました。
お爺さんにそっくりでしたから。
「どうぞ、お入りください」
ミノムシはぎくしゃくぎくしゃく家に入ります。
あの頃とちっとも変わらないケムシは、あの頃、ミノムシに接したように、ミノムシの孫に接します。
「よく来てくれましたね。ああ、ミノムシさんだなあ。うんうん」
ケムシのにこにこ顔は、カミサマらしくないようで、カミサマらしいようで。
「あの、ケムシさま。ごきげんはうるわしゅうございましょうか。おれは、あ、わたくしは、あの、例のミノムシの孫でございます。この度、わたくしは、ケムシさまがご病気ではないかと、お見舞いに伺った次第でございます」
ミノムシは直立不動です。