「消えていくものを、必要以上に儚んではいけないと教えたよね」
クモが静かにいいます。
「それは、ただ、愛おしく思えばいいからなのだ。体は消えても命は消えない。命は記憶の中にある。だから、その記憶を、愛せばいい。それが、弔うということであり、その記憶が永遠に続くことへの祈りとなる」
顔を上げたケムシに、クモが口調を変えて続けます。
「残された者は、亡くなった者のことを、憶えていることで失わずにいることができるのです。記憶、思い出の中にいる時には、時は遡り、誰もが、『その時』に戻ります。喪ったものの記憶とは、その時の自分の記憶でもあります。思い出の中では、誰もが時の流れから自由になります。もしかしたら、それを永遠というのかもしれません」
ケムシの頬に涙がひとしずく。
「見守っていた。さっき、見守っていた、といいましたよね」
ケムシはクモの言葉を繰り返します。
「そう。今まで見守っていた」
「過去形ですか。では、もう、見守りは終わりということ」
クモは笑顔でいいます。
「ケムシくん、笑って。笑ってごらん」
「え」
「お別れの時、だけど、また、一緒になる時がきた」
そういうクモの顔と声が、ケムシからどんどん遠ざかっていきます。
「ああ、クモさん」
ケムシは、足元にぽっかりと空いた穴の中に落ちたように感じました。
落ちた先は、真っ白な世界でした。
ケムシは、周囲を見回します。
真っ白な世界に、一つだけ、紅い色があります。
「あれは、花か」
ふと、気づくと、ケムシの体は、蝶になっています。
「これは、ぼくか。ちょっと待て、ぼくは何故、ぼくの姿を見ることができるのか」
ケムシは、自分が白い蝶になっていることを知りました。
「何故、ぼくには、自分が蝶に見えるのだろうか。これは、夢なのか」
ケムシはクモの言葉を思い出します。
「もしかしたら、ここは『はざまの世界』だからなのか」
クモはたしか、ケムシが『はざまの世界』にいる、といいました。
はざまとは二つの異なるものの境界、境い目のことです。
たとえば、「地の世界」と「空の世界」のはざま。
「この世」と「あの世」のはざま。
夢と現のはざま。
「はざまの世界にいるぼくには、いつもは見えない世界が、見えるのではないか」
白い蝶の姿になったケムシが、白い世界を飛びます。
ぐんぐん飛ぶ白い蝶のケムシは、いつしか、雪景色の中にいました。
「これは、あの日の景色か、あの冬の日の」
ケムシは、これまでに何度か、雪景色を見たことがあります。
あの日、ミノが間に合わなかった日。
村にいつもよりも早い雪が降った日。
眩しい白い闇のような雪の中を、白い蝶が飛びます。
やがて、白い蝶になったケムシの眼に、紅い花が飛び込んできました。
「いや、違う。これは、あの日だ」
それは、冬を割って咲く一輪の紅梅です。
「ぼくは、あの花を知っている。これは、あの日の景色だ。あの春の日の」
あの日、みんなを葬った後にひとりで冬を越したケムシは、雪を割って咲く花を見ました。
それは、冬の終わりを、春の始まりを告げるべく咲く梅の花。
その紅い花は、ひとりぼっちになってしまったケムシに、何故、自分だけが生きのびてしまったのかと真っ暗な中にいたケムシの胸に光をくれました。